鳥居強右衛門ゆかりの地


鳥居強右衛門勝商は三河国宝飯郡内(現在の愛知県豊川市市田町)の生まれで、当初は奥平家の直臣ではなく陪臣であったと伝わる。長篠の戦いに参戦していた時は数えで36歳だった。

豊川市市田町強右衛門生誕地
豊川市市田町強右衛門生誕地


奥平氏は徳川氏に仕える国衆でしたが、甲斐武田氏の侵攻を受けて武田家の傘下に従属することになります。

ところが、武田家の当主であった武田信玄が死亡すると奥平氏は再び徳川家に寝返ります。戦国時代にはよくある事なのだそうですが、信玄の跡を継いだ武田勝頼の怒りを買うことになってしまいます。1575年(天正3年)の長篠の戦いは、織田信長と徳川家康からなる連合軍が火縄銃を使い、武田勝頼の騎馬隊を倒した戦いです。

鳥居強右衛門と鈴木金七郎は長篠城を抜け出し岡崎城の織田信長の元に駆け付け窮状を訴えます。長篠城に援軍を出してもらえるよう約束を取り付け、信長と家康に休んで行くように言われたのを断って鳥居強右衛門は長篠城に引き返します。長篠から岡崎まで片道65kmの距離を鳥居強右衛門は走って往復したわけです。

長篠城を包囲している武田勢は一万五千、倍以上の連合軍なら間違いなく長篠城は陥落せずに済むでしょう。

しかし強右衛門は捕まってしまいます。

武田勝頼は、「援軍は来ないから降参しろと言えば、命は助け厚遇を与える」と強右衛門を説得します。

強右衛門も「分かりました」と一旦承知したようにみせます。

長篠城の門前に突き出された強右衛門は「2、3日で援軍が到着する、それまで耐えてくれ」と大声で叫びます。

降伏しなかった強右衛門は、武田勝頼の命令で磔にされ数え年36歳の若さでこの世を去りました。

強右衛門の壮絶な末路は敵味方を問わず感銘を与えたといいます。  



織田信長は強右衛門の死を悲しみ、強右衛門の妻の出身地である作手村に墓を建立させます。

強右衛門が使えていた奥平貞昌は強右衛門の手柄に報い、強右衛門の子孫を手厚く待遇しました。

奥平家は長篠の戦いで織田・徳川連合軍の勝利に貢献し、徳川家の重臣に取り立てられます。

長篠城主であった奥平貞昌(後の信昌)は徳川家康の長女(亀姫)の婿となります。

信昌と亀姫の間には4男1女が生まれ、第四男は分家して、松平下総守忠明となります。

松平忠明が家康の養子として分家を興す時、強右衛門の子を貰い受けています。

鳥居強右衛門勝商の子孫は代々強右衛門を名乗り、二代強右衛門信商は奥平松平家の家臣となります。

新城市作手甘泉寺強右衛門墓所
新城市作手甘泉寺強右衛門墓所


三重県桑名市専正寺鳥居家墓所
三重県桑名市専正寺鳥居家墓所

松平家は1710年(宝永7年)に桑名城主となり、六代強右衛門清商も桑名に来て桑名で亡くなり桃林寺に葬られます。以後、十一代強右衛門まで桑名の桃林寺に葬られますが、1823年(文政6年)に松平家は桑名から武蔵国・忍(現在の埼玉県行田市)に移り、鳥居家と菩提寺の桃林寺も忍に移ることになります。 鳥居家の墓は桑名に残ったままになりますが、日進小学校の拡張や都市計画道路の建設などにより、鳥居家の墓碑七基(七代、九代、十代、十一代の四基と関係者三基)は今中町の専正寺の墓地に移されました。



埼玉県行田市桃林寺鳥居家墓所
埼玉県行田市桃林寺鳥居家墓所

松平忠明の子孫・忠堯が1823年(文政6年)に桑名から忍の地へ移転し、家老であった十二代強右衛門商近もこの地に屋敷を構えます。鳥居家の菩提寺であった桃林寺も奥平松平家と共に桑名から忍に移転します。

十三代強右衛門商次は五百石末席家老となり明治維新を迎えます。

商次は維新の官軍との交渉のおり、家老五名のうち署名するのは一人という時、万一の事あれば切腹覚悟であったようですが強右衛門一人が進み出て署名したといいます。さすがは強右衛門の子孫だと語り草になりました。



長篠合戦のぼりまつり
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設楽原決戦場まつり
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作手古城まつり
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